名付けの精神史より


■そぎ落とす精神
「文字とは……人間経験のためにこそ必要であった」
「独房状態を生き抜くとは、他者の失敗を含む経験を学び合い生かし合うこと」
「手の表情の豊かさとは、『事物の状態』を通して、この痕跡が帯びる多彩な表情によるもの」
「脱出への意志がそれらの物を本来の事物として立ち現われさせた」
「自由への意志は制約の中の創意としてある」だけでなく、「事物との本来的な相互交渉は、物と人間のそれぞれの相貌を変えるとともに、物の社会的に割りつけられた機能を『使用価値』に即して変えることができる」
「不要な音の贅肉を振り落とされた静謐な世界の中に、生そのものである音が浮かび上がり、反響する」



■逆向きに読まれる時代
「終末の地形を触知し、それに身を曝すことを通じて空無なる『世界』の在りかたを手探りする」
「『人間性』が非人間的なものとの界面においてこそ問われる状態のもとで、私たちが立脚する現在は二重性とその往還運動を強いられざるを得ない」
「現代を見る古代の眼あるいは古代の声を聴き取る現代の耳が必要」

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 大部分量が多くなってしまいましたが、今日のメモはこれくらいにしておくとして。南極まで中国は資源を獲得しに手を出し始めているとか。バリやその辺の島々のことを頭の片隅に置いて、そういうのに必死になっている姿を見ると、ああ、世界も終わりだなぁ、なんて思っちゃったりします。エコカー減税、エコポイントなどなど、本気でそういうのに取り組みながら、世界散らばる悲痛な声に耳を傾けつつもその耳には耳栓がしてあるのを目の当たりにすると、後ずさりしながらも着々と進んでいるのだと感じます。とはいうものの、私はPC失ったらたぶん生きていけないでしょうけれども。自然へ帰れでも理性なき合理化でもない別の道はないのでしょうか。


 理性なき合理化といえば、先日の円安になったらいーなー発言と、それを受けての為替の敏感な動きは、もはや神の見えざる手などというものは存在しないのだということを如実に表しているのだろうと思います。為替も株もやっている人間だから、それがどうこう、悪い善いなどというわけではないのですが。価値の転換を求めたニーチェにしろ、自我の根本的な組み換えを希求したデカルトにしろ、われわれはそういう意味でも、過去に目を凝らすことを考えてみる段階に、すでに来ていると思うのです。その意志がもたらすのは、新しき天使のように目を見開くことに似ているかもしれません。


 これは今に始まったことではありませんが、すでに何人かの著名な経済学者や金融関係の専門家は、新聞や雑誌等で、もはや来るべき未来が必ずしも明るいものとは予測していません。神話的な言葉となりつつある「成長」という言葉、それは経済という言葉と併せて使われ、われわれのだれもが無自覚なうちにその組み合わされた絶対的価値観を持った言葉を受け入れています。これは「安楽への自発的隷属」として、今さら言いなおすことではありません。ゆえに、そこから脱却しようということもそれこそ啓蒙であり、できたらどんなに楽かとおもうものの、私には不可能なことのように感じています。同様に「道徳を持て」とは無理なことです。しかし、間歇的にであれ、考え直すことは今からでも遅くはないと思います。某会社の新卒採用を控えるという出来事ですら、多くの人間が、それが広告であると気付くぐらいの自我は持っているのですから。

追記:もののけ姫をやってますね。もうおわりですが。笑
文化がちがくてもともに生きましょう!泣