現代詩の欠片と戯れる。

小林坩堝さんの詩への「注釈」。
 前もって言うけれどもこれは批評ではない。小林さんは学生詩人であるらしく、ボオドレエルの誠実vol.2(文学フリマでげっとできたらしい?)の紹介によれば、「理想のデートコースは本屋→本屋→本屋」というくらいの人で、たいそう愉快な人である。が、その眼の奥にあるであろう「古代の眼」は強烈、かつ圧倒的である。射抜かれている射程は驚くほど苦々しくまた、切実な哀愁を纏っている。



散華
1:/ナイフで引き裂いてもなお、/ずだずだの笑顔がこちらを見ている。/

 ここに、物に対する自分の方向性と、それに対して物から返ってくる絶対的な抵抗が描かれている。今日の世界では「溶け合う心」が恋愛にしろ社会的つとめにしろ平然と求められているが、この1における濃縮すぎる密度の原因はこの句にある。それは市村弘正のいう「物への哀悼」の精神を思い出させる。その意味で小林坩堝という人は、恐るべき「瀕死の眼」をもった、現代において稀有な詩人である。しかしこの1はここで終わらず、


/供えた花もすぐに枯れるだろう。/ へと続く。
 明らかな「こちらがわ」の視点の転換がここにはあるのだが、溶け合えない「あなた」(=肖像画)と引き裂いた者との肉臭を帯びた他者の認識が、ここにはある。このあと2では殺伐とした世界との境界認識の否定が行われようとする。遠近ですらも曖昧模糊とした /まどろみのなか、/ に閉じ込められてしまう。閉鎖された廃工場は紙が張られ目の前にあるが、それだけにおさまらず、覚醒した意識もまた閉鎖されてしまった。しかし世界は目の前に存在するという矛盾もまた抱え込んでいる。ここではどちらもが真実であり得てしまう。不可思議であるにもかかわらず自然体すぎるのは、1があるためであった。


3:/しかし、ぬかるみは続く。/―それは路じゃないよ、/
 1で得た経験をまたもぬかるみにはまって失う直前にまで貶められる。「汚いあぶく」を吐いていることも「腐っている」ことも分かっている。それでもなお底から抜けられないという葛藤は、この3で決定的に露出する。これなしには自覚できないだろう。この葛藤が重要なのだ。
そして、4.この4は分量的にも1〜3をたした量を持ち、そしてそれ相応の強度を持っている。冗長におわるのではない。物と全身でぶつかりあい、自分でつぶした虫は


4:/ずっと死んでいる/にもかかわらずその世界では死んでいない。もうおわりである寸前、 /やわらかい土壌に、/ もうすべて沈み始めている/
状況にして
/怒った顔をして棒立ちしている/
「おまえ」を見る。こうして世界と自己が全変質を迎え、急転的に「極度な覚醒」へと導かれていくのであった。

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引用文献
ボオドレエルの誠実vol.2「対話」(2009)彗星塔

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追記1/13:18

こんなのを見たんですけど、完全に「東のエデン」じゃん。社会にコミットメントできない人間が集まる。そこで社会?が出来上がる。働けよばかやろうって言いたくなる気持ちはわかりますが、ゆとり教育受けたのは好きで受けたんじゃないし、塾にいかされてゆとりはなかったとまず言いたい。それよりも最後の発言、「健康な体があればそれでいいかな」っていう発言に、純粋に人間としてのあるべき姿というか生き方を見た気がしました。自分から「降りる」ことを体現した人々と言えるのでしょうか。だって一応京大でしょ?

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追記2/19:02
 外出中にふと思った。追記1のビデオの最後に無償でおごってもらうシーンがあったが、中にはそういうおごってあげちゃう人もいるのに、一方で世代でくくって下記ブックマークのようなことを言っている人たちがいるのを目の当たりにすると、都合のいいところだけそんなことを言われても、という気になってしまう。若者として、不愉快になりそうな気分です。

痛いニュース(ノ∀`):厚労省担当者「若者の献血離れが深刻。今の若者は助け合いの精神が足りない」 痛いニュース(ノ∀`):厚労省担当者「若者の献血離れが深刻。今の若者は助け合いの精神が足りない」