ピンズログ・「サラミの会」見ました!

 あらすじは、大学生とかサークルOBとかが、主にサークル部室でどたばたやる話。自分としては今年卒業(できるかもしれない)のでなんだか非常に感慨深かった。過去と現在の話が平行に進んでいって、だんだん核心が見えてくる。
 平林さんマジパネェっす。
 ひょんなことから「火の鳥」以降ピンズログの公演と縁のあった自分としては、いつも通りほろ苦い感じがたまらなくよかったと思う。「火の鳥」、「足りてる男」ときて初演のサラミの会が見れたのはちょっと嬉しかったかも。

<以下K先輩向けの駄文。>
 ネタばれを含むかもしれないので、これから見る方と中二脳についていけない方には下記を読むことをおススメしない。

「サラミの会」に描かれるのは社会がむき出しになって迫りくるのを初めて自分のこととして実感する大学生という期間である。こと現代日本における「人生段階最後の精神的猶予期間」の人間関係は、それまでのD.C.的人間関係とは要素も構成も全く違う。
 どの時点かは各々異なるにしても、期間の中においてそれまで自分たちが生きてきた時間の約三倍もの時間に相当する人生がその後に待ち構えているということ、そしてそれを一身に背負いこんでいるということを初めて自覚させられる。そのような自覚する者としない者のごた交ぜになった空間が、最後の猶予期間なのである。だからそこには必然的に葛藤が生まれ、それは保護機構の喪失という劇的転変の可能性を含むからこそ存在する。
 
「サラミの会」の四人は葛藤を持ち続けたまま社会にでるが、解消されない緊張感のまま再会を果たし、現役の学生と同様に人間関係の呪縛に囚われる。その時に生まれる絶大な緊張感や葛藤を、御都合的に葬るのではなくまざまざと見せつけるところがピンズログの公演と言えよう。手前勝手な目論見で手籠めに出来ない他者との葛藤を、観劇する者に避けることなくぶつけるところに平林亜季子の慧眼が冴える。偶然の事故も経過も全ておさめた映画と、「そこに焦点を当てる行為」を切り取る氏の手法に、既に失われたはずの「経験」の可能性は宿る。
 
 ……卒業という言葉だけで卒業できないのが人間なのかもしれないよね