啓蒙から脱却できない我々。


 「友の点呼に答える声」を信じられず、「日々の要求に従う」ことで手いっぱいな我々は、それでも果たして前向きでいられるのだろうか。それは今日発見したエントリでの複雑な思いから端を発する。本当に複雑な思いだ。そして注目なのは以下の引用部分。

面白いことは他人がやりたがらない事の中にある - GoTheDistance

昨今は形骸化した成果主義なるものが流行っていますし、結局の所「この点数を下回らないようにしないと」という力学が働き原資が下方硬直になり、「な〜んだ。頑張るよりも背伸びしないでミスを無くしたほうがいいじゃん」という話を結構聞きます。成果を出すモチベーションを導くはずが、活力を削ぐばかりという皮肉。

 この文章を読むに、gothedistance氏は感覚的に「安楽への自発的隷属」をわかっているだろう。これは米粒を積んで月まで行けるくらいの地獄の経験に裏打ちされているはず。だから、なんとなくだけど切々と伝わってくるものがある。のちに続く「努力幻想」の文面から見てもこれはほぼ間違いないと私には思える。だが、このあと、

なにかを手に入れようとしたら、チャレンジをするしかない。自重はダークサイド。

 ということにつながるのだが、それ以前に、チャレンジするということそのものが「再生不可能な社会からのはみ出し」になっている現実と、「自重はダークサイド」だとわかっていながらも、そうしないと食っていけない人間が、大量にいるだろう、そして自分もまたそうであるとの認識が、引用部分の強い思いをも「切り裂いて」しまっている、そしてそれは今なお進行し続けている、ということが苦しみの種で。食っていくことが満たされなきゃ、死ぬしかないわけで。「チャレンジ」の質的内容を噛み砕いて、自分なりに可能性があるものをあげるとするなら、ネットはいいツールな気が。


 ただ、その可能性を摘み取る現実を容易に脱却できると思われるのが匿名性を利用したインターネットにあるんじゃないかということは思っていても、これは一歩間違えれば妄想に浸る、「社会的疎外態」になりかねない魔力をネットは秘めているし、だから信じるに信じられず……。そうなると、「耐えながら、余裕のあるときに精神的自由を利用する」、ことしかできないんじゃないのかと、そう思っちゃって余計につらい。まぁだからこそ、「肉体のない微笑み」を唯一の希望(?)としなければならないんだけど。

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追記:見習うべきは「涼宮ハルヒ」の生命力なのかも、と思った。