就活*戦争


今日はこんなのを見つけてみました。
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20100124/1264349181
nagano_haru氏には申し訳ないが、美味しいところだけ引用。

人間が他者に侵害されてはならない、「啓発」も「啓蒙」もそう簡単に許してはならない
「ココロ」のありようを審査しようとする就活とは何なのか

企業に入る前から、企業の好む価値観や役割期待に適応するように、「自己改革」を迫られる。

内面を掘り進むという作業が就活に組み込まれている。

答えがないまま、答えのないものに向かって、自分で振る舞いを統制していく

不明なまま、「合格する」ことに向かって、内面を企業のために統制していく

混乱していく自己を抱えてこの先どうすればいいか。

 今回はあえて種々雑多な用語には触れません。啓蒙、再帰性などなど。

なぜ、「働く」とこと「内面」がここまで結び付けられるのか?

 という疑問がすべてを要約しているので、それについていうことはない。むしろこれはみんなが漠然と思っていることだと思う。取り上げたいのは「侵食する公的なもの」と「適応」あたりを何か言えればいいかな、と。


 内面への侵食は、何も今始まったことではなくて、藤田省三の「ナルシズムからの脱却」によれば1983年発表の時点でこの傾向はあったものらしい。ちなみにその時私は生まれていない。「宗教的超越の方向ではなく、自我のほうへ向かう」根本原因が、冒頭三行に示されている。1983年当時、すでにこの傾向があったのだから現在はさらにその傾向が進んで、私たち一般人にも感知できるくらい存在感の大きいものとなっていることは明白。


 このように「自我をあるがままに肯定」しているものが普遍的にウケた一例として、絢香の「I believe」(鏡をぶち破る!)があげられるのだが、それは置いておくとして。


 次に適応。これは非常に危険。適応してできた自己と自我が一致しない…ことは生きてりゃ適度にあるんだけど、トラバ先の記事でも言ってるように、ここまで自己PRに、就職活動という野獣にすべての社会的価値一元化してくる(大学卒業時に)と、その時は大丈夫でも、就業してからガタが出始め、まぁうつ病とか精神疾患コースを歩むわけになる。現在のうつ病傾向が上がってきているのは、社会的認知の波で、軽々うつ病診断出してるだろうってのも、あるっちゃあるんだろうけどそれだけとは思えん。言いたいのは、役割を演じるのはいいけど、過剰だとやばいよってこと。


http://www.asahi.com/national/update/0123/TKY201001230168.html
 また日本の教育と現実の乖離は以前から苦々しく思っていたのだが、こういう試みが出てきたのは興味深い。こういうことをやることへの賛否はともかく、敵を知り己を知らばなんとやらってのは昔から言われているわけで、「どう生きていくか」を真剣に考えなければ生きてはいけない。というか、最近まで理性を失っていた自分に涙が出る。でもそんなこと言ってられないから、今は生きるすべ(就職口)を手に入れるのが最善。「内面を掘りすすむ」ことをするのが現代は恋愛と破産しかない現実では、就職活動も一概に否定できないのが悲しいトコロ。

 
 死ねばゲームオーバー。人権もくそもない就職活動、それは塹壕戦さながらで。
 でも人間は機械じゃない。弾当たれば死ぬのょ。