自動販売機。

昔書いた恥ずかしい文章をそのまま公開。
随所に突っ込みを入れたくなる……はぁ。

                    • -

 押せば出て来ると言う至極単純な仕組みを持つ「自動販売機」と、内から外へと自分の意図とは無関係に投げ出される「缶ジュース」は、それらを一体とみなし使役する、否、それどころかそんなことなどまったく気にも留めない我々現代人に、いつからかその存在は深く根付いている。そんな自販機が日本では「保安条例」以来使われて、いまでは当初は予想もしなかったであろう高価なものでさえも「無人」の機械を通してやり取りされる。ただの自販機と思って侮るべからず、現代社会という甚だ不安な、それでも常に先端を否が応でも歩かなければならない、社会を射程に捉えた私たちにとって、「自動販売機のジュース」から窺い知れる事実は恐るべきものの様に映ってしまう。遥か彼方に葬られた「来歴」なき実体の残骸から、普段は意識されない結晶を拾い集め、また抽出することを通してでも見直した向こう側に、ただ顕わにする以上の何かしらの価値があることを祈る。



 我々が主体であることを暗黙裡のうちに認めているうちは、お金を入れてボタンを押すことで、いつでもコーヒーなりコーラなりを手に入れることが出来るという側面しか存在しない。昨今の少々行き過ぎた合理的な仕方の元で、現在に至るまでかつての農村部や過疎地のような末端にも、随分自販機自体が普及されたように思われる。世界中でもそれなりにお金を持っていることには持っている国の内部なのだから、そうした一部を例外とした末端に至るまで、産業資本主義が浸透していてもなんら不思議は無い。むしろそれは当然のことであるのは今更再確認するまでもないだろう。



 しかし主体を変えて眺めるだけで自販機にまつわる認識は大きく変化する。自動販売機のジュースにしてみれば、自身の意思や方向性などは関係なしに、収まっていた枠の中から突如として放り出されてしまうのだ。この恐るべき機構は、脚の欠けた椅子のように不安定な現代を生きる上で、家庭を担う力なき大黒柱や突如として巣を失った派遣労働者と、資本の論理追求しすぎた企業の二つの関係と似通っていることは気のせいではないはずである。かたや自らの意思とは関係なく投げ出され、かたや再構築という大義の元にそうせざるを得ない。どちらが良い悪いというのではなく、恐るべき事は自動機構が出来上がって二百年余りたとうとしている今頃になって、このような事実認識が一般に噴出したということである。その投げ出される感覚は何も今に始まったことではない。武田家に敗れた勘介の、森を彷徨う様子にも表れているように、影も形も無いような断片として「現在」に近しい事実と感覚は、飛散し埋没していた。
 知らぬうちに利用はしていたが、我が身にそれが降りかかるとき初めて自己の問題として意識するようになる。まさに今、日常における空想の産物が、いまでは我々の目前に立ちはだかっている。



 ただし初めから社会の局部的な縮図とでも見受けられるであろう意図を持って作られたわけでは決してない。規制緩和の名の下に拡大解釈されたというよりも過度に熱せられた結果として、いわずと知れた、そこかしこに散らばる現在の諸問題が、偶然にも既存の機構に近づいてしまったのである。このような中での我々の生きる道は、「世外の民」から社会的成人への移り変わりの過程で、確固とした覚悟や、陰腹をもって殿に忠告しようとした家臣に見て取れるような破滅と表裏一体の意識を持つことに他ならない。


 この論自体にかなり飛躍があったことは否定しない。また飲み終わったジュースの缶がいずれ捨てられるということについてもこれ以上は書かないことにする。と、ここまで書けば読者諸君は物事と歴史の「連関」のなかにおいて浮かび上がってくる「炙り出し」の如き事実体系は、ゆめゆめ我々に希望など見せてはくれないのだということを理解するのは実に容易い事だろう。
2009/06/11