悲劇の形式と美少女ゲーム


 ハチクロを理解するためにアリストテレス詩学を読んだがいまいちわからない。が読んでいて思ったことをダラダラまとめて残しておこうと思います。以下に続くのは「悲劇の形式と美少女ゲーム」を過剰に肯定した言説といえる。(笑)だから容赦ない突っ込みがあってもめげずに生きたいと思う。まずはこんなの見つけたんです。あまり私が考えたことをぐぐっても見当たらなかったんで、あったものを載せておく。一行目から完璧に,私が思っていたことを書いてるなぁ、なんて。
勝利によるカタルシスと悲劇によるカタルシス ミリオンアーサー速報

たとえばKeyの作品とかは、古典的な物語によくある構造だと言われたりするわけです。

 で、よく言われるっていってもよく聞くことのない私は勝手に持論を展開させてもらいます。美少女ゲームについて、東浩紀なんかはゲーム的リアリズムの誕生p.203でこんなことを言ってます。

「雫」(というゲーム)の登場で、本来はコミュニケーション志向メディアだった美少女ゲームを、コンテンツ志向メディアとして消費されるように消費の規則そのものを変えてしまった……中略……「雫」以降の美少女ゲームでは、物語とキャラクターデザインばかりが進化し、システムにはほとんど消費者の関心が払われてこなかった。

 なるほどねぇ。さすが東浩紀!しかし今回は全く違う観点から、これとは関係なく話を進めます。でもなぁ、こういうことくらいもう誰かが言ってるんだろうと思うとゲンナリスルヨ。


 悲劇の定義はアリストテレス詩学を読んでもらえればわかりますが、「叙述によってではなく、行為する人物たちによって行われ、あわれみとおそれみを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するもの」で、「人間の再現ではなく、行為と人生の再現」だそうです。また悲劇には六つの構成要素があります。重要な順に、筋・性格・語法・思想・視覚的装飾・歌曲の六つです。筋は出来事の組み立て。性格とは行為する人がどのような性質を持っているかという時に、私たちがいうときの基準。思想とは一般意見を語る時にあらわれるもの。そして再現媒体として語法、歌曲があり、再現方法のひとつとして視覚的装飾があります。


 で美少女ゲームって、視覚的装飾(立ち絵とか)もってるし、歌曲(BGM)持ってるし筋ができてりゃ悲劇として一番うまくいくんじゃね?って思うわけです。 それに叙述してるにもかかわらず、立ち絵のせいで人物が動いてるみたいに錯覚したりして、とか。事実売れているものの中には悲劇作品がけっこうある。私が知ってるのあげるとすればAirCross†channelとかOne。美少女ゲームだけじゃなくてアニメでも可能かと思ったんですが、作るとなったら実際問題、アニメは一挙一動すべてを作らなければならないので、手を抜かずに作り上げるのは大変なことでしょう。しかし、美少女ゲームには立ち絵、一枚絵が散発的にあり、文章を読むことで、自分でもって足りない表情や動きなんかは自分勝手に補完(想像)することが可能です。(エロゲとかやったことある人はなんとなくわかると思いますが。)このように、想像力に任せてしまう一方で強制的に単一レール上で話を進めていく。
 
 悲劇を描く場合、アニメよりも美少女ゲームのほうがうまくいっちゃったのはたまたまだろうけど、こういう理由が考えられます。で、だらだらやってきたけどアリストテレスの悲劇の定義や形式にしたがえば、美少女ゲームは悲劇を再現するのに適した形式であるとか、偉そうに言ってみたいわけ。笑

http://d.hatena.ne.jp/taicya/20100125

ノベルゲームは正直に言えば器用貧乏のような表現方法
(中略)
欠点を補い合い、相乗効果で高めていく方法である

 という人もいるけどね。それよりさらに美少女ゲームの形式を肯定しちゃうかんじ?。

 一方、アニメで最近見たやつの中で、悲劇がうまくいってるなぁーって思ったのは喰霊ゼロ。形式を洗練させて、効果的に利用している悲劇作品の一つである、というか六つの要素に忠実に作ってあるなぁ、という感じがします。「行為と人生」描いてるなぁ、と。


今日はここまで。伝わるようにうまく書くって難しい。
言いたいことがうまくかけない。
観鈴ちんの呪縛って、悲劇の呪縛。