些細な出来事


 歌集さんという人が昨日コメントしてくれた。


 それは「いつだって突然に」、「友情の機会」を可能なものにならしめる瞬間は舞い降りてくるのだと、前頭葉だけではなく、全身全霊で思い知った瞬間でもあった。自分が持つ「空虚の輪郭」をなぞられた思いがして、若干初めはぞぞっとしたが、これこそ私の求めていたものの形ではなかったか。そのようにして思ったのは一晩明けてからのことだった。


 歌集さんは政治学科の一年生だそうで、とある先生の講義をぐぐっていたらしい。「たまたま」、学内で発行されている刊行物を手に取り、そこにあった私の書いたものを「たまたま」読み、ググっている最中に「たまたま」ここを見つけたのだそうだ。いまどきなんと勉強家な学生であろうか。


 なにより、深海より深い情報の海にむかって、確信などあるわけないなかで、踏み出したこの「一歩」は大きい。そこに潜んでいる一歩の力は、匿名というわずかな後押しを受けたとはいえ、「社会」を作り上げる超越の「希望」を確かに含んでいる。これは疑いえない事実であろう。


 そして、この歌集さんは偶然を生かす営み、それはすなわち「社会」を形成する営みを、それがどのような経緯であれ持っている。と、このようなことを書いたとて、我々は永遠に理解されないだろう。だがその中でも、「友情の点呼にこたえる声」だけは忘れてはならない。しかし昨日の一件は、これを私自身が「忘却の彼方」に追いやっていたことを思い知った瞬間でもあった。


 存在など削除のひと押しで消えてしまうこのコメントに宿る「命の灯」は強い。おかげで私はこの先の数十年を、人工の成りを備えても、それこそ修羅の形相で生きる覚悟を、改めて持つことができた。物化しても何度となくその輪郭をなぞろう。そして何度でも「経験」を、古典化してでも蘇らせよう。それだけが今の私に残された、迂遠なる道なのだから。


 そういうわけで、歌集さんのことを生涯忘れることはないだろうと、心に刻んだのである。
 些細で小さな未知なる出来事の中に埋没している生命力の漲った力だった。