紅玉いづき其の壱


ミミズクと夜の王

■「大人向けの童話」という評価に対して
 
アマゾンを見たりすると平気で「大人向けのおとぎ話」や「大人向けの童話」、という風に書いているものが多い。こういう風に評価する人たちは、詳細な設定や言葉の真意の描写を徹底的に削ぎ落としたところに、純粋な「何か」を見たのだろうか。まぁ、そのように感じなければ、そういう言葉は出てこない。「経験の胎盤」を持つことなく大人になった我々の評価としての言葉がそこに行きつくのは、とても衝撃的なことだ。中には「気づく瞳」を持つ者もいるのだろう。紅玉いづきが消えるとき、電撃文庫が終わるだろう、などと考えていたら別のレーベル(同じメディアワークスだけど)から新作を出したようで、期待と残念な心持でもある。


■「通過点」としての小説
 「歴史に残らなくてもいい、そんな安っぽい小説を書きたい」と「一瞬だけ心を動かすような作品を書きたい」と、あとがきに書いている。これは非常に難しいのではないか。私の少ない読書量の中で考えるとしても、「観鈴ちん」までいくと呪縛になり、一方では俗悪エンタメがあふれ、その二極で世界は埋め尽くされている。

 そもそもおとぎ話は、古典的に残った作品であり、作者不明となるくらい時間的に超越して、我々の目の前にあるものだ。つまりおとぎ話や童話というのは必然的に歴史に残ってきたものになる。本人は「歴史に残らなくていい」というが、「おとぎ話」という評価を得るということは、作者の意図とは関係なく、あるはずのない時間的超越を、読んだ我々がそこに「見てしまった」ためにある。あるはずのないものを作り上げてしまう、というより見せてしまうほど、紅玉いづきの創作における結晶力は、(我々の想像をはるかに超えて)世界文学の書き手の誰よりも、その意味で高度だ。


■安い話
 あまりにもきめの細かい、いやむしろ細かすぎるコンテクストのようなモノのせいで、一見するとそれは背景か何かにしか見えない。一見しただけではあまりにもチャチな物語なのである。しかしひとたびその、きめの細かすぎる模様、微細すぎる装飾、凝り性な背景に気づいてしまうとき、我々を先に進ませるような、推進力を生みだすような「通過点」になるのである。多くの人間はそれすら気付かずに通過点を「通過」する。本来「通過点」とはその点の前後があるところにだけ成り立つのである。そして我々が、ふと気づいた時にはもう、「善悪の彼岸」ほども離れてしまっているのである。この比喩に距離的な勘違いを起こすものは捨て置く。


■最後に
 極地まで行く。そして再生する。それは定量分析不可な生命力。
 そのうち追記するかもしれません。