質的心理学、端書


 質的心理学において客観性を獲得するためには「相互主観性」や「厚い記述」というものが必要なのだそうだ。一方、数量的研究はデータを分析、数量化し、結果の再現性を保証して、客観性という柱たてる。これは自然の斉一性が根拠になっているのだとか。


 「厚い記述」は対象の事象、現象だけの記述ではなくて、文脈や環境に沿って記述することで、その現象の内包された意味や、構造というものを読み取ろうとするもので、ギアーツという人類学者の本が元ネタである。このとき、厚い記述の「厚み」は、必然的に文脈や環境をどれくらい把握したかによって決定される。


 また、質的心理学研究で重視するとよさそうな視点として、「リフレキシビティの視点」というのがある。これはデータや分析に研究者の要因が影響を及ぼしてしまうこと、またその過程を自覚して対処することで、省察性・再帰性と訳すこともあるらしい。
 再帰性といえば、ジョージ・ソロスの理論を思い出す。


 量的研究者の不誠実として、自分たちは中立である、そういう立場で研究を行っている、だから客観的だというのがあるが、この「リフレキシビティの視点」に立てば、距離をとっていても研究者としてその課題と向き合っている以上、それは避けることができない。量的研究が客観的で、質的研究が主観的だというのは、そもそも破たんしている。まぁだからと言って、質的研究の客観性が確保されたわけでなく、その獲得は非常に難しい。


 エリオットという人の論文に、質的研究のための7項目、のようなものがある。それの6項目目に興味がいったのだが、「研究課題が一般的事例の理解を扱うのか、特殊事例への洞察が目的なのかで手続きや解釈は異なる」というのがあった。


 そうすると、いつの時代においても行われてきた心理学領域の特殊事例の研究であるが、そもそも一般事例と区別しなきゃいけないのだから、上記のエリオットに忠実になるとすれば、それぞれ、客観性の確保のための手法も異なって当然のはず、ということである。しかし、一人の特殊事例に対しても、(被験者さえ許せば)相互主観性や厚い記述は可能であり、こうした手法を用いて客観性は獲得できるのではないのか。


 疑問である。