「老年的努力」的超越 第1回

ラク戦争が今も続いているとして、その民間人の犠牲者は七年弱で約十万人、平均すると一年に二万人に達しない。硫黄島の戦いでは日米双方の犠牲者をあわせても三万人に満たない。其れと比べて日本の自殺者は、警察庁の資料を信じるとして毎年三万人を超えるようになって十年である。十年といえば、ベトナム戦争が十年だったか。無論今年も間違いなく超えていることと思う。この事態は明らかに「異常」なことであると感じている。
 今日の社会における公共的性格は私的空間をすっかり侵食し切って、例外なく家庭からも私的空間が排除された。二十一世紀になっても総力戦は続けられている。我々は何時までこの、終わりの見えない消耗戦を続けていかねばならないのか。今まで城壁の内側だと思っていたアスファルトの地平で、毎年三万人の兵士を失いながら、いつかは終わるはずだと盲目的に信じられている不可視な包囲を前に、我々は籠城している。包囲しているのは鯨の腹か? 「経済成長」という紛い物の価値か? はたまた消費社会の神話構造か? ……残念ながら一年かけても未だに対象化できていない。絶望的なまでに頑丈な、コンクリート製の鳥籠にいるらしいという自覚がぼんやりと、焦点は定まっていないながらもあるだけである。私はこの一年で少しは、間歇的に自我が組み替えられるようになったけれども、もはや外へ向って何かを変えようとする術と意志は崩れ去った。そして今、「敗北」を掴みとろうとしている。それは「奇跡」と「絶対」を掌握していても覆せない「敗北」であるが、その「後ずさり」は始まりの鐘、逆転の狼煙でもある。
 制度が理性をもったために、我々は理性をもたなくても生きていくことができる。「エスカレーターで上まで行ける」という教育現場での言葉は端的にそれを示している。保護してくれる繭の中に一度入ればあとはそこから振り払われないように、危機的状況では「忠誠」と「献身的応援」を強め、そのしがみ付きはますます拍車がかかるものとなる。そうやってどこまでも隷属することに「ノー」を突きつけることは破滅(=経済的破滅)を示しているからである。そのことを我々は小学校から大学までの十六年間をかけて植え付けられてきた。世界中のどこへ行っても経済的な成功のみが唯一の価値として蔓延している。
 私は専門家ではないが、国の資料を信じるとして、うつ病患者は毎年増え続けているようである。この背景を明らかにすることは一筋縄ではいかない。また事実のみに着目するとして「うつ病と自殺」は言うまでもなく何らかの関係があるとみてよさそうである。
 神病理の問題に触れることは一筋縄ではいかない。私にとっては正面を切って応えることは勿論できないだろうし、遠くからの声になるかどうかすら怪しい。しかし「うつ病」一つ取り上げたとしても、それが大衆的に「だれもがなりうる病気」との認知が広まり浸透している事実は、眼を瞑ったり逸らしたりせずに見つめなければならない。誰もが認知していながら真剣に向き合おうとしたことがないとすれば、それこそ例外を除いた人類全体の終りの秒読みのときであるだろう。そして廃墟の山々を見ようともせず、前を向き続ける我々には永遠に解決できないことは容易に推測される。
 疎外されて自己の立たされた苦境を認識できるようになってからしか、高すぎる壁に気づけないのであれば、今まであまりにも捨ててきたものが多いため、そこからの「脱却」や「超越」の手段はどこを探しても見当たらない。我々は荒野にいる、が、大衆はそれと気づかぬまま薄ぼんやりとした輪郭のない警鐘を聴かないようにして、同じ方向を向いている。そのような人々がたどるのは、望まないことよりむしろ、「無を望む」という自己破壊的な衝動の、不可逆的な単一のレールに他ならない。だがその前を向いても後ろを向いても生きにくい「境界」にいる自覚こそが、逆説的に無への執着をも踏みとどまらせる。そのような命綱なしに命が繋がっている事態がどこまでも続いていくとは考えにくい。
 
全3回 この文章はとある同人誌にも公開されています。