ココロコネクトの「理解」と「解釈」第一回

その壱:私たちを取り巻く世界の「イマ」
 イマ、を片仮名にしたのはロミオ信者だからではありません。あくまで強調としての今=イマです。
 さて、「涼宮ハルヒ」から読み取った「経験」の後姿(背中)以降、私は長きに渡って沈黙していましたが、最近メディアに出始めた、とある作品を見て、物言わずには居れませんでした。今から始めるのは作品の推薦ではなく、よりよい理解と解釈のための言葉遊びです。私の個人的趣味とはいえ、あえて言葉を重ねると、ユングマルクスに洒落込めて、「【深層】【構造】」なるものがあるとすれば、物語を使用した深層構造の注視、ということになるかもしれません。
「孤立化と自閉化への地滑り的な傾斜」の中で、私が希望を見出した物語、それは庵田定夏著 「ココロコネクト」シリーズです。
 そして今回はこの作品を、主に市村弘正と、一部藤田省三の著作を補助線として、数ある言葉たちをモザイク状に継ぎ剥ぐことで、論旨を進めたいと思います。方法論としては私が昔行おうとしたことと変わらないわけですが、なにぶん久しぶりなので、以前より精度が落ちて、ある意味で美しいモザイク画となるかもしれません。
 今また私たちを取り巻く世界は加速度を増すかの如く、歪さを露呈し続けています。大津市で起こった「いじめと自殺」など記憶に新しいと思います。ただまぁ、私はいじめについては(戦争と同じで)語る言葉を持ちませんのであまり多くを語ろうとは思いませんが。(……という言葉を発すること自体が既に矛盾していることは自覚しております。)これについては一例にすぎませんが、私たちの生活の核心は「『泣き笑い』することしかあり得ないような、そういう悲劇」(藤田省三)が充満しています。勿論ここでいう悲劇は、祭式的な意味ではなくて、「悲劇の死」後の今日的な意味で、です。
そんな中で今回は、「可能性信者」である私は、そこからぐるっと方向転換を行おうと思います。だからといって、「生きること、それ自体の意味」の方向へと考えてを進めていけば、バッドトリップに陥って詰んでしまうことは(ハイデガーを取り出すまでもなく)「神様のメモ帳?」にてライトノベルの世界では提示済みですので、おそらく語る必要はないでしょう。加えて、人類が衰退した世界で生きる、ある意味で諦観に裏打ちされた生き方に目を凝らしても、「精神の危機」(ヴァレリー)の冒頭を思い出して悲しくなるだけです。また、「砂糖菓子の弾丸」になぞらえて「実弾」主義を徹底して世界を考察しても、運命に敗れるアレントの後姿がフラッシュバックし、悲惨を改めて自覚するばかりです。「とらどら?」のように肉体言語で魂のぶつかり合いがいつでも出来ればよいのですが、これは美しくも不可能でしょう。
そこで方向転換の先は、あきれるほど月並みな「真実な感情の表現」(ヴァレリー)ではないのかと、ココロコネクトを読んで思ったので、目的地は決まっていませんが筆をとることにした、というわけです。
注意書きなのですが、ネタばれに気を使っていないどころか、要所要所で本来不必要な妄想や感想も入っていますのでこの先を読み進める方はお気を付けください。そして、原作を読んでいない人にはおそらく全く分からない個所もあるのではないかと思いますので、そこは原作を読んでからトライしてみてください。

※ある文集に載せる予定稿の先行配信ですので多分続きません。笑