ココロコネクトの「理解」と「解釈」第2回

その弐:ヒトランダムと「友情の点呼にこたえる声」
 第一巻であるヒトランダムでは、まだ薄ぼんやりとですが「精神の共同体」の萌芽を感じます。シリーズ通してのテーマとして「感情」というのがある種のキーワードとなっており、不純で曖昧な混ざりものとして叩き出されるのが現在の世の常である、感情的要素を出来る限り呼び戻し集めなおす物語が描かれています。
 あらすじとしては、アトランダムに入れ替わる「人格」が、文化研究部という男女五人の内面、それぞれが抱える悩みを表面に晒し、相互理解を深めるという、まとめようと思えばそれだけになってしまう物語ですが、それではわざわざ私が語る意味もないので、もう少し焦点を絞ってみたいと思います。
 第一巻の時点では、自分たちの恣意ではどうにもならない、不可避は問題を受け入れていく過程が描かれます。これに関して、「ハルヒ」になぞらえて「経験」したのだと捉えようと思えば、そうとも捉えられますが、本論のベースはあくまで市村弘正を主たる補助線としますので、「感情の次元に立ち戻って考え」、「社会を再構築する物語」だと捉えたいと思います。
 個人の「再生」を軸とした物語であれば、「文学少女」シリーズが最近では有名になったライトノベルでしょうか。主人公がトラウマから脱却し、一人で歩き始めるところを「再生」の主軸として物語が進行します。これは言ってみれば、ダンテの「神曲」にも通ずる、地獄と煉獄を経て、天国へ(というか結婚へ)という、とっても重苦しい物語でした。(ちなみに私は髪の毛に美しいウェーブのかかった麻貴先輩が好きです。)ここには個人対個人の関わりあいはあっても、共同体としての物語は存在しませんでしたので、そういった意味では文学少女よりも物語の強度としては落ちるかもしれませんが、ココロコネクトの方が社会に即している物語だと言えるのではないでしょうか。
 平易な言い方をすれば「居場所」と呼んでいるアウトローの吐きだめである文化研究部が、共同体として信頼を寄せる対象へと、人格入れ替わり事件(とその後の色々な事象)を通じてなっていくわけです。
これは、「ハルヒ」でいうキョンSOS団への信頼と非常に近いものです。詳しくは「涼宮ハルヒの消失」を読むか、映画版を見るといいでしょう。(「見知らぬものに立ち戻る」結果として、超常現象なんでもありの「日常」キョンが選ぶシーンは、何度見ても感動します。)「ハルヒ」ではキョンにフォーカスが当たり、そういった場面が描かれているわけですが、ココロコネクト第一巻では、伊織、稲葉、太一にフォーカスが当たっているとみてよいでしょう。

 そして第一巻の最後では、太一も、五人で協力しあったから「ちっぽけな自分たちの世界なんていくらでも変わる、変えられる」と思うに至ります。ただしこの時点ではまだ、太一以外のメンバーが色々抱えているわけですが。とりあえずだいぶ長くなりましたので、第一巻はここまでとします。
「友情の点呼にこたえる声」を初めにあげたのは、ここでは主人公である太一でした。そして一巻では明瞭でなかった社会の再構築も、未知のものに与えられる外的要因によって次第に輪郭が浮かび上がり、ほかのメンバーにもフォーカスがシフトしていくこととなります。というわけでこの後も、「人類の唯一の希望」である「相互依存の認識と受容」(エリクソン)が、「生き生きしたかかわりあい」の末に見出される様子を、見守っていきたいと思います。