ココロコネクトの「理解」と「解釈」第3回

その参:キズランダムと「夢の弁証法
 第二巻で起こる出来事は「欲望解放」という、身も蓋もない異常事態です。(私はもっとエロエロな展開が起こるものだと思っていましたが、あまり起きなかったところに不自然さを感じつつも、恣意的な発生条件だと再認識したり……まぁどうでもいいですね)
 今回の解釈で中心に据えたい人物は稲葉姫子という女の子です。彼女は高校に入るまで世界に対して斜に構えて友達もいない、いわゆる「ぼっち」で、そのくせ一般的に「男と女が恋愛すると友情なんて木端微塵になるくらい揉める」ことを知っていて、自分に素直になれない、けれども今では偶然属した文化研究部という世界を「守りたい」と思っている、そんな子です。(まぁ焦点を誰に置くかという問題はそもそも異論を呼び起こすでしょう。例えば物語中盤で陰ながら、だれも見向きもしなくなっても共同体へ繋ぎ直そうとする永瀬伊織の姿は、ヒロインみたいで私はアリですし、そういう見方でも、というか一から六巻全部を、永瀬伊織を軸にした理解とかも非常に面白いかもしれません)
「自己の統制を超えて、『我にもあらず』動き出す」事態が表出させるのは、稲葉姫子の本心、太一を好きだという自分の気持ち。それだけでなく自分の太一への好意以上に、文化研究部という共同体を大切にしている気持ちです。
 各人が解決のために、自分の思う通りに動き、失敗し、人間が五人集まっている部だからこそ、「個人の思惑が通用しない」ということの教訓を得る物語展開になっています。手前勝手に物事を判断しようとすることに対して、逆のベクトルへと向かわせる物語の展開となっているわけです。
 物語中盤では、桐山唯、稲葉姫子の二人が引きこもりのように、文化研究部を拒絶する展開が描かれています。これは単純に「欲望解放」という事象に対しての対抗策でもあったわけなのですが、実際にはそうすることで、「埋めがたい喪失感」に苛まれることになります。この埋めがたい喪失感は「亡命者の孤独」と非常に近いもので、「決して孤独それ自体に閉じ籠って自足的に完結することを許されず、否応なしに違和感に満ちた他社の御厄介にならなければならないような、そういう孤独」でした。
結果として「欲望解放」によって初めから終わりまで彼らが身をもって体験させられるのは、「自己とは他者が生棲する場所」であるということです。(これについては、一巻の中盤で〈青木―伊織〉間で入れ替わりが起きた際に、既に伊織は他者の生棲を自覚していると思われる発言をとっています、とまぁこれは続巻で明らかになるのですが)「他者性と相互性、さらには共同体への回路をもつ魂のこのような運動」があればこそ、「自己は奇跡を実現する場となりうる」、すなわち「自己超越を可能とする」のです。「夢の諸要素を覚醒のために使用するのは弁証法の定石」(ベンヤミン)ですので、「欲望解放」という事象が起こったことで、文化研究部のメンバーは相互的な関わりあいを通じ、各人ごとに「他者への開かれた魂の目」を養い、「深々とした覚醒の契機」に手をかけることが出来たと言えるでしょう。