ココロコネクトの「理解」と「解釈」第4回

その四:カコランダムと「家族という場所」
 第三巻では、文化研究部のメンバーの時間が、ランダムに退行して幼少期や少年時の記憶がフラッシュバック(そして関係性に影響を与えあう)という出来事が起こります。
 今回一番影響を受けたのは桐山唯でした。彼女は「男性恐怖症」というわかりやすいトラウマと、空手をやっていた時の、華々しすぎる過去の栄光を持ち合わせているキャラクターのため、時間が退行するタイミングが絶妙に彼女の人生のターニングポイントに重なって、更に、自分に好意を寄せてくれている青木の過去と、自分の過去の栄光を知るキャラクターによって様々な外的要因の影響を受け、「自分は空っぽ」なのだと思い詰めるようになります。
 既に前作品で「個人の心に抱える悩みは、協力すると実は結構簡単に解決してしまう」ことを経験している太一は同じように解決を試みます。しかし今回のケースはこれに失敗し、トリックスターな青木の、「イマを全力で生きるという生き方」が個人による解決に繋がり、奇跡的に共同体としての存続に繋がります。
続いて、過去にさかのぼって、人生をやり直したいか、という選択肢を与えられた際、物語終盤の永瀬伊織の発言は、「すべての過去があって今の自分になれたから。今までの自分の歩んできた道を否定すれば、今の自分を否定してしまうことになるから」というものでした。これは青木と唯の全力で過去と向き合い、今を生きるという生き方を目の当たりにした結果の《世界の再構築》でした。そうして冷静に過去の自分を見つめなおすことを通して文化研究部としての共同体(とその自分の中での大切さ)を再認識するわけですが、この結果、伊織は太一に対して持っていた「恋愛」感情を止めることができなくなり、続く第四巻ではそれが大きな問題提起ともなるのです。(2から4巻にかけて、着々と水面下で進行するひとつの流れですね)
 さて、だいぶ前置きと余談が長くなりましたが、第三巻では「家族という場所」にかかわる物語の展開があるので、その部分に焦点を当ててみたいと思います。
 過去退行を繰り返すことによって、乳幼児になったメンバーを相互に世話するとき、「相互依存が恥ではなく介抱である社会」が自然と出来上がっています。いってみれば「弱さの率直な認知」が相互性(「世話をする―される」という相互性)を生成・救出させる前提となっているのです。
 現代では、「自分が誰か他の人よりも弱く、従ってその人に依存するのは恥であるという感情」(セネット)が基底の《感情.》となっていますので、「感覚の抑圧と拒絶をもたらす」ことになるのですが、作中では相互に受容しあう関係性が保たれていきます。
彼らが経験した「相互依存」を回避できない時間の積み重ねが、そうした社会を形成する助走路となったことは改めて言うまでもないでしょう。
物語終盤では、永瀬伊織の家庭の話へと展開していきます。家族という場所について、「切実に言葉が必要とされる事態が生じている」ことが如実に描かれており、「関係の煩わしさからの退避、という欲望とは反対の方向」へ太一と伊織は自ら動こうとします。ここまで、あれやこれやと物語の数か所から拾い上げることで論じてきましたが、第三巻では「希求や確信に基づく精神」が、「世界の組成を照射する」ことが随所で行われている(結晶化されている)物語と読み解くことが出来るのではないかと、私は思うのです。
今回はいつもに増して、まとまりが無くなってしまいましたがここまでとしたいと思います。