ココロコネクトの「理解」と「解釈」第5回

その伍:ミチランダムと「在日三世のカフカ
 第四巻では「感情伝導」という、要するに心で思ったことが他の文献部員に伝わってしまう、という内面筒抜け状態になってしまう、という出来事が起こります。
 さすがにここまで来ると、「とある魔術の……」ではないけれど、解決パターンがワンパターン(晒しあって解決!)になっているので飽きがくる方もおられるのかもしれません。ですが今回はそれすらひと悶着起こさずにいられない状況に陥ることと、そしてやっと、私のお気に入りの永瀬伊織が中心の巻なので、むしろ(余計な感想が入る分)ちょっと長くなるかもしれません。
 今回の現象で一番ダメージを負うのは伊織です。彼女は母親が結婚、離婚を繰り返し、相手の望むようないい子ちゃんを演じて成長したことで、察しの良い、誰にでも、どんな状況でも対応できる人間関係スキルを手に入れました。「普通であればどう対処するか」「理想の形」を常に追い求めるような思考の方向性です。しかし代償として、本人の自覚から引用すれば、そういった生き方自体を「演じてしまっているような感覚」に陥ってしまい、「自分」を見失ってしまいます。(今ふと「自分探し」なんていう懐かしいワードを思い出しました。ハチクロの。)
 考えている選択肢のうちの腹黒い面が筒抜けになったら、誰でも嫌なわけなんですが、ただでさえ本心は脇に置いておき、求められる形を演じることで最善を選択してきた伊織は、生き方そのものが成立しなくなってしまうので、自分を完全に見失ってしまいます。今まで脇に置き続けてきた「感情の振れ幅」も、実はものすごく大きい子であったが故です。
 実はこの時、稲葉もまた同様に空気を読むスキルの持ち主であったので、それなりに苦労するはずだったのですが、彼女の場合はもともと「自覚していたキャラ」というものが、今までの事件によって「組み換え」られていたために、ダメージとしては伊織よりも少ないものになったのだと考えられます。
 第四巻で伊織が露呈させるのは「共同体」以前の、「個人」の大切さと「弱さ」についてです。一から三巻での物語の中で、「永瀬伊織」は色々な意味で「人間的に強い」キャラ作りがなされてきました。一巻では自己の死に向きあわされて、二巻では一巻の恐怖を思い出しボロボロになって、三巻ではボロボロの状態で「やり直しの選択肢」という揺さ振りをかけられて、しかしそのどれもを「周囲が望む形」で撥ね退けたことが、強いキャラ作りの一端を担っているのですが、これらはすでに永瀬伊織自身のキャパシティを越えるもので、四巻で「爆発した」もしくは「足元の氷が割れた」などと表現されています。冷静に考えればなにも可笑しいところはなくて、「永瀬伊織は普通の女の子」だったということで問題ないのですが、周囲がそれを許さぬ状況まで追い込んでしまいました。永瀬伊織の発言(魂の叫びのシーン!が私は大好きなのですが)は、「現代という時代、それと戦うよりも、むしろ代表してしまう時代のネガティブな面」が如実に表れており、「ポジティブに転化した表層を生きてゆく志向」に占領されていることを露呈させます。(こういう意味でも現代の縮図のような伊織がますます注目すべき点として大好きになってしまうですが)この露呈とはまさに「自己をそれたらしめた条件を、外側の社会だけでなく、自分の内部そのものが掘り崩してしまう」状況と言えるでしょう。
 「時代と社会の「否定面」に属することが明らか」なネガティブな経験が、「共同性によっては『処理』できないと考えられるとき、どうすればよいのか」という問いに対して、市村弘正は「その事態と自前の仕方で付き合うほかない」と、答えになっているのかどうか非常にあやしい回答添えています。ここでいう「自前の仕方」というのが、伊織の爆発に対する稲葉の叫びであったり、考えた末の伊織のやり方なのだと思うことも出来ます。
 ここまでだいぶ長くなりましたが、第四巻では「自分の不安や限界意識に基づく個人的なモラルは、決して退行や逃避ではなく、むしろ新たな社会を担いうる志向なのであり、どのような与えられた存在規定にも同化しない「自分」を生きることが、その社会の基礎となる」ということ、簡単にいいかえるとすれば、「弱さは新たな社会関係の基礎を形成することにおいて、自己を救出する力となる」そんな可能性をひしひしと感じさせてくれる巻だったのではないかと感じました。
 ところで、今回の論とは全く関係ないのですが、やたらと記憶に残っているシーンがありますので紹介したいと思います。ページ数でいうと173ページに、文研部四人で資料を作成しているなか、「感情伝導」を通じて「寒いな、今日も」と四人に伝わる場面です。
私にはこのシーンが、ひとりで校舎の玄関から帰路に就く伊織の「後ろ姿」を想像させられて、なんというか「もののあはれ」を感じさせられました。形式としては、ただ世界から受ける感想を「つぶやくだけ」なのですが、その一言から想像する哀愁に満ちた後姿は、無視できないと私には思えるのです。